音楽教室に通い始めたのは4歳のころだった。以来20年以上、レッスン室に足を踏み入れるたびに、必ずそこにはアップライトかグランドピアノがあった。それが当たり前のことだと、ずっと思っていた。
最近、音楽業界に関わる知人からこんな話を聞いた。「今の音大には、キーボードしか持っていない学生が入学してくる」というのだ。グランドピアノ対アップライト対電子ピアノという議論はずっと続いている。だがキーボードで音大に入学する、というのはその議論をはるかに超えたところにある話だと感じた。
数字を調べてみると、これが個人的な体感ではなく、業界全体で進行している構造的な変化の結果だということが見えてきた。
「音大生はグランドピアノで練習しているはずではないのか」

音楽大学のピアノ専攻といえば、幼少期からグランドピアノで練習を積み重ね、入試では高度な技術が問われる──そういうイメージが一般的に持たれている。東京藝術大学をはじめとする一部の名門音大では、今もその水準が維持されている。
ところが、ある音大教授が語ったとされる話には重みがある。キーボードしか持っていない学生が入学してくるだけでなく、基礎的な理解力が追いつかない学生や、響きの薄い音しか出せない学生が増えており、教える側が苦痛を感じるほどだという。途中退学していく学生も多いとされる。
これは一校の問題ではないと考えた方が自然だろう。背景には、楽器市場の変化と音大経営の変質という、二つの大きな流れが絡み合っている。
「グランドピアノの販売台数が20年で3分の1以下になった」

音楽大学のピアノ専攻において、グランドピアノは練習の基本とされてきた。タッチの繊細な反応、鍵盤の重さ、ハンマー機構による音の立ち上がり──これらはアップライトピアノや電子ピアノでは再現しきれないとされており、プロを目指すうえでグランドピアノでの練習は不可欠だという認識が長く続いてきた。
ところが国内市場のデータは、その「当たり前」が急速に崩れていることを示している。
ヤマハとカワイのグランドピアノ国内販売台数は、2000年の9,435台から2017年には3,289台まで落ちた。17年間で約65%の減少だ。アコースティックピアノ全体で見ると、1992年に国内で113,500台売れていたものが2010年には16,356台となっており、こちらは18年間で7分の1以下の水準まで縮小している。
グランドピアノは価格帯が高く、設置には広いスペースが必要なため、一般家庭での普及には限界がある。とはいえ、この減少幅はそうした事情だけでは説明しきれないものがある。子どものころからグランドピアノに触れる機会そのものが、以前と比べて大幅に少なくなっているという数字と見ることもできそうだ。
「音大離れはなぜここまで加速したのか」
楽器市場の縮小と並行して、音楽大学への進学者数も減少の一途をたどっている。
文部科学省の学校基本調査によれば、音楽系の在籍者は1990年度に22,053人いたが、2023年度には15,723人にまで減少している。33年間で約3割減だ。
この背景には複数の要因が重なっている。まず少子化による18歳人口全体の減少がある。次に学費の問題だ。私立音大の初年度納付金は200万円を超えるケースも多く、その投資に見合うリターンが見えにくいという状況がある。
そして最も大きいと思われるのが、卒業後の出口問題だ。音大を卒業しても演奏家として生計を立てられる人はごく一部で、多くがピアノ講師や一般企業への就職を選ぶ。そのことが広く知られるようになった結果、「なぜ高い学費を払って音大に行くのか」という問いに、明確な答えを出しにくくなっているのではないかと考えられる。
「定員割れが招いた入試の変質――キーボードで音大に入れる時代」

学生が集まらなければ大学は経営を維持できない。この単純な事実が、音大入試に変質をもたらしているといえそうだ。
多くの私立音大が定員割れに陥っており、経営維持のために質より量を優先して入学させる方針をとる大学が増えているという実態がある。非クラシック科の新設もその一環だ。ポピュラー音楽やミュージカル、音楽療法といった学科を設けることで、従来の「クラシック専門」とは異なる層を取り込もうとしている。
これ自体を悪いこととは言い切れない。音楽の裾野が広がることには意義があると考えられるからだ。問題は、そうした経営的な判断の積み重ねが、入学してくる学生の楽器に対する基礎的な習熟度に影響を及ぼしているという点だ。
「とにかく入学させる」という方針の大学では、専攻楽器の実力が一定水準を下回っていても入学できるケースがある。キーボードしか持っていない学生が音大に入学するのは、その延長線上にある現象と考えることができる。
「基礎的なグランドピアノの響きを知らない世代が、次のピアノの先生になる」

ここからが、ピアノ教室に関わる読者にとって最も考えておきたい話になるかもしれない。
グランドピアノの響き、鍵盤の重さ、タッチによる音量の変化──これらはキーボードでは再現しにくい感覚だ。そうした感覚を体で知らないまま音大を卒業した学生が、やがて地域のピアノ教室の先生になる可能性がある。
これは今すぐ起きている問題ではなく、数年から10年単位で静かに進行していく変化だ。ただし、その変化の起点はすでに始まっているとも言えそうだ。
保護者の立場から見れば、先生の経歴を確認することの意味が以前よりも大きくなっているかもしれない。「音大卒」という肩書きが、「グランドピアノで練習を積んだ先生」を必ずしも意味しなくなりつつある、という認識は持っておいて損はないだろう。
ピアノ教育の現場にとって、これは外部環境の変化だ。嘆いても状況は変わらない。だとすれば、教室を選ぶ保護者も、現場で教える先生も、この変化を知った上でどう動くかを考えることが次のステップになると言えそうだ。
出典
- グランドピアノ・アップライト国内販売台数推移:浜松ピアノ店コラム(ヤマハ・カワイデータ)
- 国内ピアノ販売台数(1992年〜):静岡県楽器製造協会/ビジネスジャーナル(2013年9月)
- 国内アコースティックピアノ出荷台数:日経ビジネス(2016年7月)
- 電子ピアノ市場データ:日本大学商学部紀要「電子ピアノ市場における価値創出」(2025年3月)
- 音楽系在籍者数:文部科学省「学校基本調査」
- 楽器演奏人口:総務省「社会生活基本調査」
- 音大入試の実態:ビジネスジャーナル(2024年5月)