イギリスの学校では、授業の途中で生徒がピアノレッスンのために教室を抜けることがあります。
しかも放課後ではなく、通常の授業時間中です。日本では考えにくい光景ですが、イギリスでは「音楽は学校生活の一部である」という認識が根付いており、こうした仕組みが自然に受け入れられています。
さらにイギリスには、ピアノの演奏レベルを社会的に証明できる仕組みもあります。ABRSM(英国王立音楽検定)と呼ばれる資格制度で、グレード1から8までの段階別に試験が設けられており、合格するとOfqual(英国政府の資格規制機関)が認定した公的な資格として認められます。グレード6以上になると、大学入学願書の資格欄に記載できます。つまりピアノの演奏力が、TOEICのように「持っていると社会的な証明になる資格」として機能するわけです。
日本のピアノ教室にも各社のグレード制度はありますが、それは教室ごとに基準が異なる内部評価です。「世界90カ国以上・年間63万人が受験する統一基準の資格」という規模と社会的信頼性において、ABRSMは別格の存在です。今回はそんなイギリスのピアノ教育の実態を調査しました。
「授業中に教室を抜けてレッスンへ 学校とピアノの関係が日本と逆」
イギリスのピアノ教育で日本人が驚く光景のひとつが、学校での個人レッスンの在り方です。
主に私立校を中心に、ピアノやバイオリンなどの楽器レッスンを学校内で受けられる制度があり、しかも放課後ではなく通常の授業時間中に行われます。生徒が授業の途中で教室を抜けてレッスン室に向かい、終わったらまた授業に戻る。日本では少し考えにくい光景かもしれません。
この仕組みの背景には、「音楽は学校生活の一部である」というイギリスの文化的な認識があります。学校の先生も「音楽の個人レッスンで授業を抜けること」を当然のこととして受け入れており、習い事と学校生活が截然と分けられている日本とは異なる感覚があるといえます。
ただしこの制度は主に学費の高い私立校での話であり、公立校では放課後に地域の音楽教室や個人の先生に通うスタイルが一般的です。イギリスの教育格差は音楽の学び方にも影響しており、どのような環境でピアノを習えるかは家庭の経済状況と通う学校によって大きく異なります。
「ピアノの演奏力が公的資格になる国 ABRSMという仕組みの正体」
ABRSMは1889年にロンドンで設立された歴史ある検定機関で、英国の4つの王立音楽学校(王立音楽院・王立音楽大学・王立スコットランド音楽大学・王立ノーザン音楽大学)が共同で運営しています。
試験はグレード1(初心者レベル)からグレード8(音楽大学入試レベルに相当)まで設けられており、実技演奏・スケール・初見演奏・聴音テストの4項目で評価されます。グレード5以上の実技試験を受けるには、グレード5の音楽理論試験への合格が条件となっており、「演奏技術だけでなく音楽の知識も一定水準を担保する」という設計になっています。
合格結果は合格(Pass)・優良合格(Merit)・優秀合格(Distinction)の3段階で判定され、特に上位2段階の結果は進学先や就職先での評価材料になることもあります。
受験料は2026年時点でグレード1が約48ポンド(約1万224円)、グレード8が約126ポンド(約2万6,838円)。これは月謝とは別にかかる費用で、先生が代理で申し込むことが一般的です。日本でも受験可能で、ABRSMからイギリス人検定員が派遣されます(通訳の同席も可能)。
「グレード1から8まで 段階的な目標設定が生み出すもの」
ABRSMの最大の特徴は、子どもが「次のグレードを目指す」という明確な目標を持ちやすい点にあります。
日本のピアノ学習では「発表会に向けて練習する」という目標設定が一般的ですが、イギリスでは「次のグレードに合格する」ことが大きなモチベーションになります。グレードの合格証は学校や就職の場でも通用する実績として残るため、子どもも保護者も「なぜ練習するのか」という問いに対して明快な答えを持てます。
この仕組みが生む副産物として、先生の指導実績が可視化されやすいという点があり、生徒のグレード合格実績は先生の評価にもつながるため、先生側にも質の高い指導を維持する動機が生まれます。
なお、ABRSMを必ずしも全員が受験するわけではなく、受験を重視しない先生も一定数いますが、資格として社会に定着しているため「グレードを取っておきたい」という保護者の需要は根強いといいます。
「月謝は日本とほぼ同水準 ただしロンドンは別格」
イギリスの個人ピアノレッスンの月謝相場は、1時間あたり20〜60ポンド(約4,260円〜1万2,780円)程度とされています。月4回のレッスンとして換算すると月1万7,000円〜5万円程度で、日本の個人教室(月5,000〜10,000円程度)と比べると高めですが、アメリカほどの開きはありません。
業界団体であるMusicians’ Unionが推奨する最低賃金は2025〜26年度で1時間44ポンド(約9,372円)とされており、これが実質的な業界の相場下限として機能しています。
ただしロンドンは完全に別格です。コンサバトワール系の音楽院(王立音楽院・王立音楽大学・ギルドホール等)で訓練を受けた先生は1時間40〜65ポンド(約8,520円〜1万3,845円)が相場とされ、ロンドン中心部や経験豊富な演奏家が教える場合は1時間100ポンド(約2万1,300円)を超えることも珍しくないといいます。アメリカのニューヨークと似た仕組みで、都市の物価と先生のキャリアが価格に直結しています。
「音楽を主要教科から外した国 EBacc問題とピアノ教育の今」
ABRSMという充実した資格制度を持つ一方で、イギリスのピアノ教育が抱える課題もあります。
2010年、イギリス政府はEBacc(English Baccalaureate)と呼ばれる主要教科の評価制度を発表しました。英語・数学・理科・人文科学・外国語の5分野が主要教科として定められましたが、音楽はその対象から外れました。学校の評価基準に直結するEBaccに音楽が含まれないことで、学校が音楽に割く時間や予算が削られていく傾向が指摘されています。
2018年にロンドン交響楽団の音楽監督サイモン・ラトルが「すべての子どもが音楽に接することは生得権であり、音楽教育の充実は子どもたちの将来に不可欠」と声明を発表したのも、この流れへの危機感からでした。
ABRSMが世界に根付いて音楽教育の水準を支える一方で、国内の学校制度が音楽を「主要教科」と認めていないという矛盾は、現在も解消されていません。
「日本のピアノ教室と何が違うのか 比較でわかること」
イギリスと日本のピアノ教育を比較したとき、最も際立つのは「資格制度の社会的定着度」の違いです。
日本でもヤマハグレードやカワイグレードなど各社の検定制度はありますが、その評価基準は教室ごとに異なり、社会的な通用力はABRSMとは大きく異なります。「ピアノのグレードが大学受験の資格欄に書ける」という発想は、日本では現時点ではほぼ存在しません。
学習の動機付けという点でも対照的で、日本は「発表会」が大きなモチベーションになるのに対し、イギリスは「グレード取得」が目標として機能しています。どちらが優れているというより、「演奏を人に聴かせること」を動機の軸にするか、「客観的な資格として記録に残ること」を軸にするかという文化の違いが反映されているといえます。
月謝については、地方であれば日本と大差ない水準ですが、ロンドンではアメリカに匹敵する高コストになります。受験料も別途かかるため、ABRSMを活用した学習はある程度の教育投資を前提としています。
6カ国を見渡してきて感じるのは、「何のためにピアノを習うか」という問いへの答えが、国によってまったく異なるということです。韓国・中国は「子どもの教育の一環」、ロシアは「専門的な音楽人材の育成」、アメリカは「音楽を楽しむ多様な選択肢のひとつ」、ドイツは「文化への公的な投資」、そしてイギリスは「資格として社会に通用するスキルの習得」。その国の文化と制度が、ピアノという楽器との関わり方を形作っています。
次回はフランスの事情を取り上げる予定です。
出典
- かけはし芸術文化振興財団「英国王立音楽検定(ABRSM)」
- ON-KEN SCOPE(ヤマハ音楽振興会)「イギリスの音楽教育」(2024年1月)
- Markson Pianos “How much do piano lessons cost in the UK?”
- Lewis Bolland Music “How Much Do Piano Lessons Cost? An Honest Guide”(2026年5月)
- Piano with Norbert “How Much Do Piano Lessons Cost in London? A Transparent 2026 Breakdown”(2026年5月)
- Musicians’ Union 推奨レート(2025-26年度)
- Wikipedia “ABRSM”