世界中でピアノを習っている子どものうち、約8割が中国に集中しているという。この数字を初めて見たとき、正直なところ少し疑いたくなりました。しかし複数のメディアや国営報道が同様の内容を伝えており、あながち誇張とも言い切れないようです。
韓国の小学生普及率が約80%という数字も驚きでしたが、中国はそもそも「国全体の規模」が違います。学習者数は推定3,000万〜4,000万人。日本(約200万人)と比べると、実に15〜20倍という水準です。
ただ、この「ピアノ大国」と呼ばれた中国に今、大きな変化が起きています。かつての熱狂はどこへ向かったのか。今回は中国のピアノ教室事情を調査し、その栄枯盛衰から見えてくるものを整理してみました。
「世界の8割のピアノ学習者が集まる国 中国という別次元のスケール」
中国のピアノ学習者数は3,000万〜4,000万人と推計されており、これは全人口の約2〜3%にあたります。人口比では日本(約1.6%)と大きく変わらないように見えますが、母数が14億人を超えますので、絶対数は比較になりません。
さらに、ピアノ生産の面でも中国は長らく世界トップの位置にありました。2019年には年間約39万台ものピアノが国内で生産・販売されており、この数字はグローバル市場においても突出したものです。日本国内の年間販売台数が数万台規模であることと比べると、その差は歴然としています。
なぜここまでの規模になったのか。その背景には、中国特有の歴史的・社会的な文脈があります。
「ピアノは”成功の象徴”だった 経済成長と一人っ子政策が生んだ熱狂」
実は、中国でピアノが自由に弾けるようになったのは、それほど昔のことではありません。
1966年から1976年にかけての文化大革命の時代、ピアノは「ブルジョアジーの象徴」として批判の対象となり、西洋楽器の演奏そのものが事実上、禁じられていました。転機となったのは1978年、鄧小平が主導した改革開放政策です。市場経済への移行とともに西洋文化の受け入れが進み、ピアノもようやく「普通の楽器」として家庭に戻ってきました。
つまり、中国のピアノ教育が本格的に動き出したのは1980年代以降のことです。日本にピアノが入ったのが1823年、ヤマハが創業したのが1887年(明治20年)であることと比べると、中国のピアノ文化の歴史はまだ40〜50年ほどしかありません。日本が100年以上かけてじっくりと習い事文化として定着させてきたのに対し、中国は経済成長の勢いに乗って一気に拡大した、という背景があります。
その急拡大の中心にいたのが、2000〜2010年代の中間層です。経済成長とともに都市部を中心に中間層が台頭し、「豊かになった証として子どもにピアノを習わせる」という文化が広がっていきました。
この動きを加速させたのが、一人っ子政策の影響です。一人に集中する教育投資と、「わが子には最高の機会を与えたい」という親の強い意識が、ピアノ学習の需要を押し上げました。子ども一人にかけられる教育費が多いほど、ピアノのような費用のかかる習い事も選ばれやすくなります。
加えて、受験との連動も大きな要因でした。かつての中国では、音楽や芸術分野の優秀者に対して大学入試で加点される制度があり、「ピアノが弾けると受験で有利になる」という認識が広まっていたといいます。習い事としてではなく、「受験対策のひとつ」としてピアノを選ぶ家庭が増えたことが、この急拡大を支えていたと考えられます。
「ラン・ランとユジャ・ワンを生んだ教育システム」
中国のピアノ教育を語るうえで欠かせないのが、世界的なピアニストを輩出してきた実績です。
ラン・ラン(郎朗)は1982年生まれ、3歳でピアノを始め、9歳で北京の中央音楽学院に入学しています。17歳のとき、急病の演奏家の代役としてシカゴ交響楽団と共演したことで一躍国際的な注目を集め、その後グラミー賞ノミネートや世界各地の主要オーケストラとの共演を重ねてきました。中国を代表するピアニストとして、国内外で絶大な知名度を持ちます。
ユジャ・ワン(王羽佳)は1987年生まれ、6歳でピアノを始め、7歳で中央音楽学院に入学しています。14歳でカナダへ渡り、フィラデルフィアのカーティス音楽院でさらに研鑽を積みました。技巧の精密さとカリスマ的なステージ存在感で知られ、現在も世界トップクラスのピアニストとして活躍しています。
両者に共通しているのは、幼少期から北京の中央音楽学院という国内最高峰の教育機関でレッスンを受けていたという点です。中国には音楽専門の教育機関が早くから整備されており、才能ある子どもを早期に発掘・育成する仕組みが機能していました。この土台があったからこそ、世界水準のピアニストが生まれ続けてきたと言えそうです。
「政策ひとつで一変した 双減政策と入試改革が引き起こしたピアノ離れ」
2019年に約39万台だった中国のピアノ生産・販売台数は、2023年には約16万台にまで落ち込んでいます(日本経済新聞、2024年)。わずか4年で半分以下になった計算です。
この急落の引き金となったのが、2021年に施行された「双減政策」です。義務教育段階の子どもへの学習負担を軽減することを目的とした政策で、学習塾の規制が強化されました。音楽教室が直接の対象ではありませんでしたが、「習い事全体の見直し」という流れが社会に広がり、ピアノ教室への通学をやめる家庭が相次いだといいます。
さらに追い打ちをかけたのが、入試の芸術加点制度の廃止です。「ピアノが受験に役立つ」という動機が消えた瞬間、習い事としての優先順位が一気に下がりました。「倒産ラッシュが止まらない」。浙江省湖州市の「ピアノの里」と呼ばれる生産地では、長年工場を経営してきた60代の男性がこう語ったと伝えられています(共同通信、2024年)。
景気の低迷も重なりました。Bloombergの報道(2024年)によれば、都市部の中間層の所得が伸び悩む中、「週に数千円かかるピアノのレッスンをやめるのは当然の選択に思えた」と語る保護者の声も紹介されています。受験メリットがなくなり、景気も回復しない。ピアノを続ける理由が、次々と消えていった構図です。
「伝統楽器回帰という新潮流 欧米音楽から”中国らしさ”へ」
ピアノ離れと入れ替わるように注目を集めているのが、古筝(こそう)や二胡(にこ)などの中国伝統楽器です。
習近平総書記が「中国の文化的遺伝子を守るように」と国民に呼びかけている影響もあり、伝統楽器を子どもに習わせる親が増えているといいます(Bloomberg、2024年)。欧米との緊張関係が続く中、「西洋の楽器」であるピアノへのためらいが広がっているという見方もあります。
これは単なる習い事の流行変化ではなく、国の文化政策と連動した動きです。受験制度の変更がピアノ需要を一瞬で変えてしまったように、政策の方向性が文化的な消費行動にも大きく影響する。中国という国のスケールと特性が、ここでも如実に現れています。
「日本のピアノ教室と何が違うのか 比較でわかること」
中国のピアノ教育を日本と比較したとき、最も際立つのは「政策との連動の強さ」です。
日本でも少子化や習い事の多様化によってピアノ人口は緩やかに変化していますが、政府の方針が数年で市場を半減させるような急激な変化は起きていません。中国では受験制度・教育政策・文化政策がピアノ需要に直接影響しており、個人の「音楽が好きだから習う」という動機だけで市場が動いているわけではないことがわかります。
レッスンの月謝については、都市部(北京圏)で週あたり28〜53ドル相当という報告がありますが、地域差や教室の質によって幅が大きく、日本と単純に比較できるものではありません。
著名なピアニストの輩出という点では、ラン・ランやユジャ・ワンに代表されるように、中国は世界水準の演奏家を生み出してきた実績があります。ただし、韓国が国策として芸術大学を設立したように、中国の場合は中央音楽学院という既存の専門機関が長年その役割を担ってきた、という点で性格が少し異なります。
また日本との共通点として、「豊かになるにつれてピアノ学習者が増えた」という経緯があります。高度経済成長期の日本でもピアノが憧れの象徴として家庭に普及したことは、中国の2000〜2010年代の動きと重なります。ただ日本の場合、その後も習い事文化として定着していったのに対し、中国では受験制度の変更と景気後退が重なって急速に萎縮したという違いがあります。
ピアノは「豊かさの象徴」から「文化的な習慣」へと変わっていくのに時間がかかる。中国のピアノ市場が経験している変化は、そのことを改めて示しているのかもしれません。
中国のピアノ教室事情を一言で表すなら、「世界最大の熱狂と、政策による急激な失速」という言葉が近いでしょうか。
3,000万〜4,000万人という学習者数、ラン・ランやユジャ・ワンという世界的演奏家の存在、そして「ピアノの里」と呼ばれる生産地の倒産ラッシュ。これらはすべて、同じ国の10年あまりの間に起きた出来事です。
日本でピアノを習っている保護者や子どもにとって、政策ひとつで習い事が急変するという経験はなかなかピンとこないかもしれません。しかしそれは、日本のピアノ教育が民間主導で比較的安定した土台の上にある、ということでもあります。
次回は、国家主導の音楽教育システムで世界的なピアニストを輩出し続けてきたロシアの事情を取り上げる予定です。
出典
- piano.promo「世界のピアノ人口ランキング」
- 日本経済新聞「中国、ピアノ『狂騒曲』 ゆとり教育で生産・販売激減」(2024年4月)
- Bloomberg「中国でピアノ売れず、ミドルクラスに余裕なし」(2024年2月)
- 共同通信/Yahoo!ニュース「『ピアノ大国』中国に変調 お受験需要消えバブル崩壊」(2024年2月)
- ソニーミュージック「ラン・ラン プロフィール」
- Wikipedia「ユジャ・ワン」